先日、車を運転している時のことです。
道端で高齢の方たちが立ち話をしている姿を見かけました。
特別な会話をしているわけではありません。
天気の話かもしれないし、近所の話かもしれない。
内容だけを見れば、ごくありふれた会話です。
でも、なぜかその光景が強く印象に残りました。
そして見ているうちに、あることを考えたのです。
もしかすると、人は最後に「何かを手に入れること」ではなく、「誰かと存在を共有すること」を求めるのではないかと。
若い頃の会話には目的がある
僕たちは若い頃から、多くの目的を持って会話をしています。
仕事で成果を出すため。
人脈を広げるため。
恋愛をするため。
評価されるため。
情報を得るため。
もちろん、それ自体は悪いことではありません。
むしろ必要なことです。
人生を前に進めるためには、そうした会話も大切です。
ただ、その多くは「何かを得るため」の会話です。
年齢を重ねると見えてくるもの
しかし年齢を重ねるにつれて、人は少しずつ色々なものを手放していきます。
肩書き。
役職。
競争。
見栄。
若さ。
体力。
そういったものが少しずつ剥がれていく。
すると最後に残るものは何なのか。
それは案外、とてもシンプルなものなのかもしれません。
「今日も元気でしたか」
「最近どうですか」
「暑くなりましたね」
そんな何気ない会話です。
でも、その会話の本質は情報交換ではありません。
その人がそこにいること。
自分もここにいること。
お互いの存在を確認し合うこと。
そういう時間なのではないかと思うのです。
一分の重さは年齢によって変わる
若い頃の一分と、高齢になってからの一分。
同じ六十秒でも、その重さは違います。
人生の残り時間が見えてくるからです。
だからこそ、何気ない会話にも意味が生まれる。
何気なく見える時間が、実はとても大切な時間になる。
そんな気がします。
僕自身、親もその世代に入っています。
だからこそ余計に考えるのかもしれません。
あの何気ない立ち話の中には、若い頃には気づけない価値があるように見えるのです。
これは高齢者だけの話ではない
そして僕は、この感覚は高齢者だけのものではないと思っています。
むしろ今の時代だからこそ、働き盛りの世代にも必要な感覚ではないでしょうか。
SNSを開けば比較が始まる。
仕事では成果を求められる。
収入や実績で評価される。
気が付けば、人を見る時も「何を持っている人か」という視点になりがちです。
でも本当は、
どんな人なのか。
何を感じているのか。
何を大切にしているのか。
そういう部分に目を向けることも大事なのだと思います。
人として向き合う。
ただそれだけのことです。
人生の前半と後半
人生の前半は、何者かになろうとする時間なのかもしれません。
能力を身につける。
お金を稼ぐ。
評価される。
実績を作る。
それらは間違いなく大切です。
しかし人生の後半になると、少しずつ問いが変わってくる。
何を持っているかではなく、
どんな人として生きているか。
誰と時間を共有しているか。
そんな問いに変わっていくのかもしれません。
最後に
道端で話す高齢者の姿を見ながら、そんなことを考えました。
お金も大切です。
仕事も大切です。
夢や目標も大切です。
でも、その先にあるものは案外シンプルなのかもしれません。
「今日も会えてよかった」
「元気そうでよかった」
そんな言葉を交わせる誰かがいること。
人は最後に、そこへ戻っていくのではないでしょうか。
だからこそ今のうちから、
何者かになることだけではなく、
一人の人として誰かと向き合うことも大切にしていきたい。
そんなことを思った一日でした。


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